日本には多くの有名建築物があり、その歴史や建築された背景もさまざまです。今回は、伝統的な建築物を取り上げ、その成り立ちや日本建築の魅力を見ていきましょう。
竪穴建物で始まる建築
そもそも、建築物の基本的な役割は、私たちを風雨などから守ることです。そのため、古代の建築物といえば、地面に竪穴を掘って掘立柱を立て、梁と垂木で固定して丸太を組み、葦などで屋根を葺く単純なものでした。
▲三内丸山遺跡
いわゆる「竪穴建物」(竪穴式住居)と呼ばれるもので、主に居住用のものです。
青森県の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)では、1992年から始まった発掘調査で、縄文時代前期から中期にかけて(いまから約4200~5900年前)の大規模な集落跡が見つかり、多くの竪穴建物跡が見つかっています。
寺院建築の3つの様式とは?
仏教の伝来とともに、大陸などからさまざまな建築技術が伝わったのは、飛鳥時代からです。大陸からもたらされた技術と、従来からあった建築技法が混ざり合い、たくさんの寺院が建立されました。
鎌倉時代になると寺院建築は意匠や構造によって分類されるようになり、「和様」「大仏様」「禅宗様」の3つが基本的な様式とされました。
和様▶3つの様式の中ではもっとも歴史が古く、日本独特の様式として発展した寺院建築で、装飾を省いたシンプルな印象を受けるのが特徴となっています。遣唐使が廃止される以前は、大陸の建築物を模倣したものが多かったのですが、廃止以降に国内で独自に発展した建築様式です。京都・宇治の平等院鳳凰堂などが代表的な建築物です。
▲東大寺南大門
大仏様▶鎌倉時代に焼失した東大寺を再建するために、宋から来日した重源という僧がもたらした建築様式です。「鎌倉新様式」とも呼ばれ、天井を張らずに内部の構造材を装飾的に見せていることや、貫(ぬき)と呼ばれる水平方向の材料を多用して柱と組み合わせることで、構造を強化しているのが特徴となっています。奈良の東大寺南大門などが代表的な建築物です。
禅宗様▶大仏様の少し後に、禅宗とともに宋から伝わった建築様式で、唐様(からよう)とも呼ばれました。貫を多用して構造を補強するなど、先述の大仏様との共通点も多く、床が土間であることも特徴のひとつです。鎌倉時代以降、全国に禅宗様の寺院が建てられました。鎌倉の円覚寺舎利殿などが代表的な建築物です。
五重塔の心柱はスカイツリーにも
奈良の法隆寺は、約1400年も前に建てられた世界最古の木造建築物として知られています。日本では初の世界遺産にも登録されていますので、訪れたことのある人も多いのではないでしょうか。
その法隆寺にある五重塔は、5層からなる屋根から5階建てのように思われますが、実は2階以上に相当する床はなく、実質的には平屋建てと言ってもいいような構造になっています。また、五重塔は全国各地に建てられていますが、これまで地震で倒壊したものがないと言われるように、構造的な強さを持っているのも特徴です。
法隆寺の五重塔は、内部の中心に地中から屋根上まで貫く桧でできた「心柱(しんばしら)」と呼ばれる柱が自立しています。これが構造上の強さの秘密ではないかと言われていますが、はっきりとはわかっていないようです。
しかし、この心柱は東京スカイツリーにも応用されています。スカイツリーでは、中心の心柱が非常階段になっており、地震のときには制振システムとして機能します。これが展望台とつながっており、五重塔の心柱に対応するものです。
千年以上前の建築技術が現代の建築にも応用されるほど、当時の技術が優れていたことの証と言えそうです。
敵の攻撃を防ぐための要塞「城郭」
各地の城や城跡巡りなど、ファンも多い城郭も日本の伝統的な建築物です。
▲吉野ケ里遺跡
城郭の起源は、弥生時代に耕地や作物を外敵から守る「環濠(かんごう)集落」(集落を堀で囲ったもの)と言われています。大規模なものでは、佐賀県の吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)が有名です。
飛鳥時代以降は、大陸からの侵攻に備えた「古代山城」(険しい山を利用して築かれた城)と呼ばれる城郭が、西日本を中心に広まりました。戦のときには山上に防御設備を配置して籠もり、平時は山麓に居住していたそうです。
城郭の地形別の分類
種類 | 特徴 | 代表例 |
---|---|---|
山城 | 険しい山を 削って 作られた城 |
岩村城、 高取城、 備中松山城など |
平山城 | 小高い丘や 丘陵などに 作られた城 |
仙台城、 姫路城、 熊本城など |
平城 | 平地や 盆地などに 作られた城 |
駿府城、 名古屋城、 広島城など |
戦国時代に入ると、全国で城郭建築が盛んになりました。そして戦国末期には、軍事目的の山城だけではなく、政治・経済情勢や家臣の住まい確保などの目的で、小高い丘の上に「平山城」が、平地には「平城」も築かれました。代表的な平山城には姫路城や熊本城、平城には名古屋城、二条城などがあります(表参照)。
城郭の周辺には武家屋敷、町人町、寺社などが建てられ、政治や経済、文化の中心として、「城下町」が全国各地に誕生していきました。
天守はなんのために?
▲姫路城
城といえば、天守(俗称は、天守閣)を思い浮かべる人も多いでしょう。
そもそも天守は、戦時の見張り場所や司令塔、そして権威の象徴としての役割を持っていました。織田信長が安土城、豊臣秀吉が大坂城の天守を居住用としたと言われていますがこれらは稀有な例で、ほとんどは、武器や弾薬の保管庫になっていたと言われています。
明治維新の廃城令や太平洋戦争を経て、天守を残す(現存する)城郭は、松本城や姫路城などわずか12天守のみです。
建築物の近代化へ近代建築の魅力
明治維新以降は、建築物の近代化・西洋化が進みました。建物の設計や監理を専門とする建築家が誕生したのは、欧米の文化や技術がもたらされた、明治時代はじめ頃のことです。
建築家誕生のきっかけは、専門的な建築教育のために設置された工部大学校(現在の東京大学工学部の前身のひとつ)でした。教育を担ったのは、明治政府の招聘に応じたイギリスの建築家、ジョサイア・コンドルです。
コンドルは、工部大学校で教鞭をとるとともに、鹿鳴館、三菱一号館、東京国立博物館旧本館など多くの建築物も手掛けています。
工部大学校でコンドルの教え子だった辰野金吾や片山東熊らは、卒業後に多くの有名建築物を手掛けていきました。
建築家のさきがけ 辰野金吾
工部大学校の造家学科を主席で卒業したのが、辰野金吾です。辰野は卒業後にイギリスに留学し、恩師コンドルも所属していた建築事務所で学びました。
▲日本銀行本店
その辰野の代表的な建築物が、日本銀行本店や中央停車場(東京駅・丸の内駅舎)などです。
日本銀行本店は1896年の完成。古典的な様式の外観は石造りに見えますが、内装材にはレンガも使用されています。内部は、エレベーターや水洗トイレなど、当時としては珍しい設備も導入されていました。
建物を真上から見ると、日本の通貨単位である「円」の字に見えることは、偶然(当時は「圓」という旧字体を使用していた)とはいえ有名なエピソードです。
中央停車場は1914年の完成。当初はドイツの建築家である、フランツ・バルツァーが設計を担っていました。ところが、西洋化を進める当時の政府内から、和風の設計案に反対の声が上がり、辰野金吾にあらためて依頼されたと言います。中央停車場の特徴のひとつは、赤レンガと白い大理石を組み合わせた紅白のストライプ模様の外観でしょう。これは、日本銀行京都支店(現在の京都文化博物館別館)など、辰野が手掛けた他の建築物でも見られるもので、「辰野式」と言われるデザインです。
南北にある、八角形のドーム型天井も特徴的です。天井内部のアーチに取り付けられた8つの干支のレリーフや、豊臣秀吉の兜を模した装飾など、随所に独特の意匠が施されています。現在の東京駅は、1945年の空襲でドーム屋根と3階部分が焼失後に、暫定的に復興されたものを、2012年に竣工当時の姿に復元したものです。
日本では、いまでもたくさんの伝統的な建築物が現存しています。歴史や文化・思想が凝縮された建築物は、これからも私たちを楽しませてくれることでしょう。
▲解体前の中銀カプセルタワービル
ユニークな現代建築として注目を集めた「中銀カプセルタワービル」をご存知でしょうか?
建築家・黒川紀章氏が設計し、世界初のカプセル型集合住宅として実用化された建物です。設計のコンセプトは、「ビジネスマンのための都会のセカンドハウス」。1972年に東京の銀座で竣工したこの建物は、「メタボリズム」と呼ばれる、約60年前に黒川氏ら日本の若手建築家グループが提唱した建築運動における代表作と言われています。
メタボリズムとは、本来「代謝」という意味で、社会の変化などに対応して、建築物も生き物のように新陳代謝しながら成長させるべきだという理念にもとづいたものでした。
カプセルは工場で作られ、140戸分が取り付けられた外観は、鳥の巣箱を積み重ねたように見えるのが特徴です。1部屋(カプセル)の面積は約10㎡で、ベッド、ユニットバス、エアコン、冷蔵庫、テレビ、電話機なども完備、あたかも宇宙船の船内のようなインテリアも話題になりました。
住居や事務所として利用されてきましたが、残念ながら、老朽化により2022年4月〜10月に解体されました。しかし、そのユニークな思想と建築デザインを長く残すために、比較的状態のよいカプセルは保存・再利用が検討されており、海外の美術館からも、関心が寄せられているそうです。