日常生活に定着した国民食や定番料理の歴史を探る「ごちそうの歴史」。9月号でご紹介した「天ぷら」に続いて今回取り上げるのは「お好み焼き」。大阪の粉もの文化の代表格ですが、じつは東京生まれ。大阪風、広島風の違いの秘密も探ります。
子供のおやつから大人の食事に
だしが利いた生地のまろやかなうま味、たっぷりのキャベツの甘み、熱々の鉄板に焦がされるソースの香ばしさが魅力のお好み焼き。大阪生まれの名物料理というイメージがありますが、じつは東京で生まれて西日本で発展した料理。東京・浅草では、現存最古のお好み焼き専門店が今も営業を続けています。
お好み焼きの直接的な起源と考えられているのが、江戸時代後期に登場した「文字焼(もんじやき)」というお菓子です。文字焼は水で溶いた小麦粉に甘い蜜を混ぜて薄く焼きのばしたもので、鉄板の上で文字や絵を描きながら焼いたことからその名がつきました。
■ 明治時代の郷土玩具研究者・清水晴風が描いた文字焼屋台の様子。清水晴風「世渡風俗圖會」
文字焼は明治時代までの間に東京・月島の名物として有名な「もんじゃ焼き」へと派生しますが、大正時代になると、文字焼ともんじゃ焼きからさらに派生した屋台スタイルの軽食「どんどん焼き」が東京で流行。太鼓をどんどんと鳴らして売りまわったことが名前の由来と考えられていますが、客の好みの具材を使って調理することから「お好み焼き」という呼び名でも親しまれていたそうです。
どんどん焼きが誕生した当時は洋食ブームの真っただ中であり、明治時代に伝来したウスターソースもこの頃には一般に定着していました。どんどん焼きが東京から西日本に伝わると、どんどん焼きにウスターソースを塗った「一銭洋食」が誕生。一銭洋食は子供のおやつ感覚の屋台メニューでしたが、昭和初期までには大人が座敷で楽しむ料理「お好み焼き」へと発展しました。この名前はどんどん焼きの別名を受け継いでいると同時に、"自分で好きに作る"という意味合いが込められていると考えられます。
そして戦後まもない食糧難のなか、お好み焼きは鉄板一つで作れる手軽な料理として注目され、大阪を中心にさらに発展。初めはくず肉を乗せる程度でしたが、復興とともにキャベツをはじめとしたさまざまな具材が使われるようになり、鉄板を前にしてカウンターテーブルで食べるスタイルなども確立。東京で生まれたお好み焼きは西日本で大きく飛躍し、大阪を代表する料理となりました。
たこ焼きもお好み焼きの兄弟
お好み焼きと並んで大阪の粉もの文化を代表する料理といえば「たこ焼き」。系譜はどちらも同じですが、一銭洋食から分岐して異なる道を歩んでいます。
たこ焼きの原型と考えられているのが、一銭洋食の職人がくぼみのある鉄板に生地を流し込んで焼いたとされる「ちょぼ焼き」。さらに昭和初期にはちょぼ焼きからの派生として、小麦粉の生地にすじ肉やこんにゃくを入れて丸く焼き上げた「ラジオ焼き」が誕生しました。ラジオ焼きという名前は、当時高価で人々の憧れだったラジオにあやかって名付けられたそうです。
そして、大阪でラジオ焼き屋台として開業していた「会津屋」の初代店主・遠藤留吉氏が、兵庫県明石市の郷土料理「明石焼」をヒントに卵とタコを使ったオリジナルのラジオ焼きを考案。1935年に「たこ焼き」が誕生したのです。
大阪風と広島風の違い
■ お好み焼きにマヨネーズをかける食べ方は1953年に考案された
お好み焼きの話題で欠かせないのが、いわゆる大阪風と広島風の二つのお好み焼き。どちらも源流は同じですが、大阪風は生地と具材を混ぜて焼く「混ぜ焼き」式。広島風は焼きながら生地に具材を重ねていく「重ね焼き」式という明確な違いが存在します。
そもそも文字焼きから一銭洋食まで、具材と生地に混ぜずに焼いて乗せる作り方を採用していました。しかし、座敷料理・お好み焼きの客が自分で焼くスタイルを提供する際の簡便性の都合から混ぜ焼き式のレシピが誕生。大阪風はこの座敷由来のお好み焼きの系譜を継いでいるため混ぜ焼き式が主流となりました。
大阪風のお好み焼きは戦後の復興とともに全国に広まりましたが、原爆により他県よりも甚大な被害を受けた広島は復興が遅れていたため、混ぜ込み式のお好み焼きが根付くことはありませんでした。そのため、広島では一銭洋食をベースに独自に発展させた重ね焼き式のお好み焼きが誕生。1975年に広島東洋カープが悲願のリーグ初優勝を成し遂げた際に、広島市内のお好み焼き店がテレビ中継に映ったことがきっかけとなり、広島風のお好み焼きが全国的に知られるようになったのです。