日本の食文化として定着した食事や定番料理の歴史を探る「ごちそうの歴史」。12月号でご紹介した「蕎麦」に続く今回のテーマは、お正月を賑やかに盛り上げる「おせち料理」。新年を寿(ことほ)ぐ華やかな料理の起源は奈良時代の行事にありました。
神に祈りを伝えるお供え物
人それぞれの一年も締めくくりの日を迎えて訪れる新しい年。新年の幸せと期待を込めて、奮発して豪華なおせち料理を予約した方もいらっしゃるのではないでしょうか。
■ 上巳の節供のちらし寿司。お正月のおせちと同じように、縁起の良い食材が使われる。
おせちを漢字で書くと「御節」となりますが、語源は「節供(節句)」に端を発しており、そのルーツは約1300年前の奈良時代にまでさかのぼります。
当時の日本は中国(唐)からさまざまな文化・制度を取り入れていましたが、そのひとつに、"季節の変わり目の日に祝祭を行う"という風習がありました。この季節の変わり目の日「節日」には、五穀豊穣・無病息災・子孫繁栄を祈って神様に供える料理「節供(せちく)」が用意されていました。しかし、時代が進むにつれていつしか節日そのものを節供と呼ぶようになり、呼び方も「せちく」から「せっく」へと変化。それと同時に、節供の日の料理のことを節供料理と呼ぶようになり、「節供」の頭に「御」の字が足され、語尾の「供」が省略され、「御節料理」へと転じたのです。
つまり、おせち料理とはもともと正月に限らず、節供の日全般のお祝い料理のことでした。節供にはさまざまな種類がありますが、数ある節供のなかでも最も重要とされていたのが正月だったことから、正月のお祝い料理が「おせち料理」として定着したのです。
江戸時代に制定された五節供
奈良時代に伝来した節供の風習は永きにわたり宮中行事として催されてきましたが、江戸時代になると幕府の行事として行われるようになり、しだいに民衆の間にも普及していきました。その際に民間に古くから伝わる祝いの行事と融合し、日本各地で独自の節供が誕生しました。そこで江戸幕府は、日本各地で発展した数多の節供の中から、徳川家の出身地である三河の風習と古代中国の五行思想に基づいた五つの節供「五節供」を重要な節供として祝祭日に制定しました。
江戸幕府が定めた五節供は、七草がゆを食べる日として知られている1月7日の「人日(じんじつ)の節供」。女の子の健やかな成長を願うひな祭りの日であり、桃の節供の別名でも知られる3月3日の「上巳(じょうし)の節供」。男の子の健康と立身出世を願う日であり、現代では"こどもの日"として国民の祝日に指定されている5月5日の「端午の節供」。機織りの上達を願う日であり、織姫と彦星の七夕伝説を伝える7月7日の「七夕の節供」。菊の花を飾り、菊の花びらを浮かべた菊花酒を飲んで長寿を願う9月9日の「重陽(ちょうよう)の節供」の五つ。正月は別格扱いとされ、五節供には含まれていません。
五節供の制度は明治初期に廃止されたため今ではなじみの薄い節供もありますが、大半は年中行事として暮らしに定着しています。上巳の節供にはちらし寿司や甘酒、端午の節句にはちまきや柏餅、七夕の節供にはそうめんなどが供されますが、これらの料理も本来の意味におけるおせち料理といえます。
おせち料理に込められた意味
■ 和風の祝い肴と子供も喜ぶ洋風メニューを組み合わせた「和洋折衷おせち」も人気。
かつてのお正月のおせちは季節の野菜、豆腐、こんにゃく、昆布など精進物を使った煮しめが中心でしたが、現代のスタンダードなおせちは田作り・黒豆・数の子など「祝い肴」を中心に、かまぼこ・きんとん・肉・魚など酒の肴となる「口取り」、そして「焼き物」「酢の物」「煮物」によって構成されています。おせち料理は正月の三が日の間食べられるように日持ちがして冷めても美味しいものが詰められていますが、『田作りは材料のゴマメを田畑の肥料にしていたことから五穀豊穣の祈りを込めて。なますは色白の大根から清らかな生活を連想するとともに、大根が根を張るように家がしっかりと栄えるように。きんとんは漢字で書くと財宝を意味する「金団」となることから、豊かな生活への願いを込めて』というように、縁起を担いだ内容になっているのも特徴です。
中華風おせちや洋風おせちといった変わり種おせちは大正時代から存在するといわれ、今では馴染み深い存在となりました。しかし、多様化したとはいえ定番のおせちといえばやはり和風です。
人々の祈りと願いを脈々と受け継ぎながら、より華やかに発展していったおせち料理。新しい一年の健康と幸せを祈願しつつ、海山の幸をふんだんに使用した滋味豊かな味わいを堪能しましょう。