愛知県 安城市立篠目中学校
三学年 加藤 あい(かとう あい)
忘れもしない、平成三十年八月二十日。私はアメリカでの四週間にわたるホームステイを終え、日本に帰国した。じっとりとした日本の暑さにめまいがした。アメリカが懐かしいなあ、などと間抜けなことを考えていた。山ほどある土産話をひとしきり両親に話し、ひと息ついたところで、母が口を開いた。残念な話があると。
「祖父(母の父)に食道ガンが見つかった。ステージⅢ。来月、手術をする。」
私の頭の中は真っ白になった。まるで私がガンの宣告を受けたような気持ちになった。死が目の前に迫ってくる感覚だった。
予定通り、祖父は翌月手術を受けた。八時間に及ぶ大手術。手術当日、朝早くから母も病院に駆けつけて祖父を手術室に見送り、祖母のそばで終わるのを待った。
祖父の生命力の強さ、医師の力により手術は無事成功した。
しばらくして、私も祖父の病室に見舞いに行けることになった。大きな手術の傷跡や、やせこけた体を見ることは辛かったが、アメリカでの話を楽しそうに聞いてくれたのは嬉しかった。私が出来ることは、祖父にメールを送ることと会えるときには病院に行って顔を見せることだけだった。
それから、母は週に三回ほど片道二時間かけて祖父の病院へ通うようになった。家を完全に空けることはなかったが、母が病院に行った日の食事はスーパーやデパートで買った惣菜になることが多くなった。そのことに不満は何もなかったが、母の顔が疲れていることに気づくこともあった。
祖父は当時八十歳。その年齢をものともせず、驚異の回復力でどんどん元気になった。元々持っていた祖父の生命力と私たちの祈りが天に届いたのだと思っている。
何カ月かして、すっかり元気になった頃、祖父は母にお金の入った封筒を渡してきた。
「生命保険の給付金がおりたから。」
と、祖父は言った。その言葉の意味が分からなかった。給付金というのは、手術や入院費をまかなうものではないのか。
祖父はその理由を話してくれた。祖父は自分がガンになったことで、周りの人にたくさんの心配をかけたことを申し訳なく思っていたのだ。私には、せっかくの楽しかったホームステイの話に水を差してしまった気がしていたこと。母には、何度も病院に通わせて、母親や妻の仕事をしなくてはならないのに余計な時間・お金・精神的な負担をかけてしまっていたこと。それらに対しての感謝の気持ちからだった。
一人が病気になるということは、家族全員を巻き込むということ。医療費だけでなく食費や交通費など目に見えない小さな支出が増えることがあること。それが積み重なると結構な金額になるのだということも祖父から聞かされて知ることになった。
母は祖父の給付金の一部をもらうことを頑なに拒否した。ずっと抵抗していた母に祖母は言った。
「受け取ることが親孝行よ。」
給付金の使い道は人それぞれだ。祖父の病気のおかげで、私は新しい家族の愛を見たような気がした。
れから二年後。今年の八月、祖父は新たにガンが見つかり、頸部リンパ節再発部切除という手術を受けた。コロナ禍により家族であってもお見舞いが制限されたため、祖父の顔を見ることなく入院、手術、退院がすべて終わった。元気に過ごしていると聞いて安心している。
「何にもしてないんだから、前みたいにお金はもらわないからね。」
電話口で母が、笑いながら話している声を聞いた。それも『愛だな』と感じた。