年齢を問わず、幅広い世代に愛される「漫画」は、日本が世界に誇る文化です。今回は、一大カルチャーを築いた漫画のたどった歴史の一部をご紹介します。
絵巻物から始まった日本漫画
日本で最初の漫画は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて描き継がれた絵巻物、『鳥獣人物戯画』(京都・高山寺所蔵)だと言われています。
甲乙丙丁の4巻で構成され、甲巻は擬人化した動物、乙巻は実在と空想の混ざった動物、丙巻は人間風俗と動物、そして丁巻は勝負事に挑む人物を中心に描かれています。
こうした絵巻物のように、絵で物語を展開する手法は、後の漫画やアニメにも引き継がれていきました。
しかし、戯画(滑稽、風刺化して描かれた絵)は主に貴族や上級僧侶などの知識人が楽しむもので、当時は一般庶民が楽しむものではありませんでした。
鳥羽絵(とばえ)から漫画が庶民にも広まる
江戸時代の半ばになると、大阪の版元が、当時京都で流行していた鳥羽絵のスタイルを、戯画本に取り入れて一大ブームとなりました。
鳥羽絵とは、江戸時代の中期、大阪で流行していた滑稽な絵のことを言います。
顔や手足は誇張され、動きがあるのが特徴です。目は黒いマルや一文字に簡略化、鼻は低く、口は大きく、手足は異様に細長く描かれ、このような誇張された表現は、現代の漫画にも通じるものがあります。鳥羽絵という言葉は、漫画を意味する言葉として、大正時代まで使われていました。
鳥羽絵は、その後登場する葛飾北斎の『北斎漫画』などにも影響を与えました。コマで区切って連続的な物語として見せるコマ表現は、いまでは当たり前の手法ですが、北斎漫画にも多くのコマ表現が見られます。
さまざまな題材をもとに描かれた北斎漫画は、大名から庶民まで幅広く愛されたそうです。
これをきっかけに、他の版元もさまざまな絵師を発掘し、多くの戯画本や戯画浮世絵が世に送り出されました。
戯画本をきっかけに、風刺画やコマ表現が誕生するなど、江戸時代は日本漫画が大衆文化として定着し、世界でも有数の漫画大国になる礎になった時代とも言えます。
メディアの発達で漫画文化が花開く
明治時代に入ると、新聞や雑誌などのメディアに発表の場が移り、印刷技術や鉄道網の発達で、全国的に漫画が大量に普及していきました。
その中で1862年、イギリス人の画家でもあるチャールズ・ワーグマンが、『ジャパン・パンチ』という漫画雑誌を創刊しました。日本の政治や社会を風刺したのが特徴でした。
ジャパン・パンチは明治期の漫画界に少なからぬ影響を与え、『團團珍聞(まるまるちんぶん)』などの風刺雑誌の創刊が相次ぎました。ちなみに、風刺画を意味する「ポンチ絵」という言葉は、この雑誌が由来になったと言われています。
手塚治虫がストーリー漫画を確立
少年漫画、漫画雑誌という言葉が一般的になったのは大正時代のこと。ナンセンス漫画や人間性を風刺したストーリー漫画が登場したのもこの時代です。
大正時代を代表する漫画家である岡本一平は、ユーモラスな漫画に洒落た文章を付けて人気を集め、この時代の流行スタイルとなりました。また、新聞連載の漫画が単行本化されるなど、大正時代は現代の漫画スタイルに近づいた時期でもあります。
そして昭和に入ると、それまで「鳥羽絵」「ポンチ」といった言葉に代わり、「漫画」が日常的な言葉になっていきました。また、『のらくろ』(田河水泡著)などの子ども漫画が人気を集めたのもこの頃です。
戦後、日本の漫画は大きく飛躍しました。その代表格とも言えるのが、ストーリー漫画を確立した手塚治虫です。
1947年に発表された『新寳島(しんたからじま)』は、それまでとは違う映画的で斬新なコマ割り表現が受けてベストセラーとなり、あとに続く漫画家に大きな影響を与えたと言われています。
ギオンは「擬音」と書き、音を文字で表す表現方法です。
漫画家によって、独特の擬音が使われることがあります。
「ドーン」「ギギギギ」など、音がコマの中で文字としてデザインされていて、臨場感を高め、ストーリーを演出する、漫画には欠かせない“効果音”です。
絵とセリフだけでは伝わらない、登場人物の感情や物語の状況を表現する擬音は、読み手に漫画の世界がリアルに伝わる効果として欠かせないものです。
漫画雑誌から電子版漫画へ
『週刊少年ジャンプ』が653万部と、史上最高の発行部数を記録したのが1995(平成7)年のこと。人気の『ドラゴンボール』や『SLAM DUNK』などが連載されていた号です。漫画雑誌の売上げがピークを迎えた時期ですが、これ以降は徐々に漫画雑誌は縮小していきます。
代わって登場してきたのが、インターネットの普及を背景にSNSを利用した四コマ漫画などの大人向け漫画などです。SNSからデビューして単行本化される作品も登場するなど、新聞・雑誌に代わるメディアの新潮流となっていきました。
また、漫画の読み方にも変化があります。従来の「紙版」に加えてパソコンやスマホなどで読む「電子版」漫画の普及です。全国の10~60代の男女2820人へのインターネット調査によると、紙派は32%、電子派は43.9%、どちらも派は24.1%という結果でした(※)。
電子版漫画には、無料で読めるものが少なくないことも影響しているかもしれませんね。
※(株)アップデイトが運営するサイト「otalab」が、2022年9月1~12日に47都道府県在住10代以上の男女2820人を対象にした「漫画の利用実態調査」より。
MANGAとして世界へと広がる
今や日本の漫画は、国内だけではなく海外にも多くのファンがいて、「MANGA」としてグローバルな娯楽文化となっています。
繊細に描かれた絵や、大人でも楽しめる奥深いストーリーなどが日本漫画の人気要因で、海外で売られている漫画の9割は、日本作品の翻訳が占めているそうです。
日本の漫画が海外でも人気を集めるようになったのは1990年頃から。『ドラえもん』『ちびまる子ちゃん』『ONE PIECE』などが各国語に翻訳されて注目され、漫画は「MANGA」として国際表記にもなっています。
2019年には、イギリスの大英博物館で日本マンガ展が開かれるなど、MANGAは芸術の一つとしても認められつつあります。
近年では、日本の漫画作家に影響を受けた海外の漫画家の活躍も増えてきました。漫画の世界はこれからも、広がり続けるのでしょう。
「トキワ荘」というアパート、漫画ファンなら一度は耳にしたことがあるでしょう。
手塚治虫、藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫など、日本漫画の源流とも言える漫画家が、若い頃に住んでいたアパートとして知られています。
トキワ荘の伝説は、1953年に手塚治虫が入居した時から始まりました。入居を勧めたのは、手塚治虫の代表作の一つ『ジャングル大帝』を連載していた、『漫画少年』の出版社に勤める編集者でした。手塚治虫は約2年間でトキワ荘を出ますが、入居者は「漫画少年に作品を投稿し、入選した若手の漫画家」が、条件のひとつになったとも言われています。
藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らもこの投稿欄から始まって、執筆ページを持つようになった漫画家です。トキワ荘は、漫画雑誌の編集者が多く出入りしていたこともあり、コミュニケーションの場、仕事への接点の場という側面もありました。
また、トキワ荘では、急ぎの仕事などで忙しい者を、手の空いている者がアシスタントとして手伝うなど、相互扶助の機能も持ち合わせていたそうです。
トキワ荘は、1982年に老朽化のため取り壊されましたが、2020年に東京都豊島区に「トキワ荘マンガミュージアム」が開館し、当時の様子が再現されています。
豊島区立トキワ荘マンガミュージアム ホームぺージ:https://tokiwasomm.jp/